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写真が溜まれば気ままに書いてみよう

哲学者梅原猛の訃報

昨日の16日のBlog《roughly & about》の中で、「言霊」に触れたのは偶然ではない。

それは15日の朝日新聞朝刊を飾る記事に触発左右され、
知らぬうちに無意識の潜在意識に刷り込まれていたのだ。

哲学者「梅原猛」氏が93歳で死去したという報に接した。

当然ながら、「天声人語」っ子に取り上げられるほど、
日本を代表する「知の巨人」であったと断言できる。

そして、【評伝】

哲学者として、権力・権威に対する反骨の精神を持つ見事な人生を生きた。

その彼が40代初めで「言霊」を駆使して「怨霊」を取り上げた研究の成果を、

奈良・法隆寺聖徳太子一族の怨霊を鎮める寺だと説いた
『隠された十字架➖法隆寺論』(1972年刊)

万葉歌人柿本人麿は刑死したと主張した
『水底の歌➖柿本人麿論』(1973年刊)

など、独特の古代史論に結晶。

それを全面的に展開、構築、発表し、学界の異端児的存在にもなった。

それら新聞記事の読後の影響が、
無意識のうちに肌に染み込み潜在意識を短時間で脳みそに育んでいた。

今日(17日)の「鷲田清一」氏による追悼文にはその辺の異端ぶりを読み取れる。


さてどのような梅原思想が、吾が脳みその潜在意識に刷り込まれたのだろう?

今回は、早々と梅原猛氏の略伝に、訃報の日時情報が書き加えられた
wikipedia」の力を安直ながら借りよう。


龍谷大学文学部の講師を経て、立命館大学文学部の講師、助教授、教授を歴任した。その後、京都市立芸術大学に転じ、美術学部の教授を経て学長に就任した。1980年代には「国際日本文化研究センター(仮称)創設準備室」の室長として国際日本文化研究センターの創設に尽力し、設立後は所長に就任した。実存哲学について研究に取り組み、その後、「梅原日本学」と呼ばれる独自の世界を開拓した。他にも「スーパー歌舞伎」「スーパー能」[1]を創作するなど、幅広い活動を行っている。これらの業績が評価され、文化功労者に選出され、のちに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、京都市名誉市民の称号を贈られている。

2019年1月12日、死去[2]。93歳没。



更に、【読売新聞】の人物評に「実存哲学」との深い関わりが記述されている。

実は、ボク自身の実存形成の過程で、
ニーチェ」や「ハイデッガー」に少なからず好奇心を持ち影響を受けたのは
彼、梅原猛氏が書いた実存主義思想の存在だった。


 尽きることのない知的好奇心で、歴史と人間の本質を探究し続けた、哲学者の梅原猛さんが亡くなった。真理を求める厳しさと人間味あふれる人柄で、ジャンルを飛び越えながら独自の学問を築いた生涯だった。

 哲学者、西田幾多郎に憧れて、京都帝国大(現・京都大)に進学。直後に入隊し、熊本県終戦を迎えた。後に戦争のことを語る時、「僕よりも立派な人たちがたくさん死んだ」と悼んだ。研究の原動力を「青年だった僕らに『死ね』と戦場に駆り立てた祖国への怒りと、それでも消えない強い愛情」だとした。

 哲学者デカルトから懐疑の末に真理に達する姿勢を、ニーチェからは人間の情念への洞察を学び、戦後、ハイデッガー実存主義に傾倒した。やがて、寄席に通って日本人の笑いとは何かを研究するうち、日本人の精神への関心を深めた。

 こうした経験を背景に、通説にとらわれず人間の情念へと踏み込んで歴史を語るのが梅原日本学だ。大胆な推論はときに異端視されたが、「怨霊は理想が高過ぎて当時の政治権力と衝突し、流され殺された人がなる。怨霊なしに日本文化を論じられない」と揺るがなかった。


後段のそこら辺の日本文化論については【朝日新聞】に詳しい。


独自の理論で日本古代史に大胆な仮説を展開した哲学者で、国際日本文化研究センター日文研京都市西京区)の初代所長を務めた文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが12日、死去した。93歳だった。

 1925年、仙台市生まれ。京都大学哲学科卒業後、立命館大学教授や京都市立芸術大学長などを歴任した。

 60年代から日本文化研究に傾倒し、72年に奈良・法隆寺聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられたとする「隠された十字架―法隆寺論」を出すと、73年には万葉歌人柿本人麻呂は流刑死したとする「水底(みなそこ)の歌―柿本人麿論」を刊行。通説を覆す独創的な論は「梅原古代学」と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。


 80年代前半には、日本文化を総合的に研究する中心機関の必要性を訴え、当時の中曽根康弘首相に直談判するなど政府関係者を説得。日文研の創設にこぎ着け、87年に初代所長に就任した。

 社会的発言も多く、日本人の死生観をもとに「脳死」の考え方に強く反対したほか、イラク戦争自衛隊の海外派遣の反対、平和憲法擁護なども訴えた。一方で、スーパー歌舞伎ヤマトタケル」の創作など劇作家としても活動し、多才ぶりを示した。

 99年に文化勲章受章。97年から日本ペンクラブ会長を3期6年務めた。2004年には「九条の会」呼びかけ人となり、11年には東日本大震災復興構想会議の特別顧問となった。


晩年とまでは言わないけれど、
日本文化論を思索、探求する中で「言霊」論と「怨霊」は無視できない。


産経は古代文化史の記述に詳しい。

梅原猛さん死去】文明史観、歴史観を根底から覆した「知の巨人」
2019.1.14 02:56 【産経WESTライフ】

 梅原さんの知的好奇心はとどまるところを知らず、これまでの文明史観、歴史観を根底から覆す大胆な独自の学説は「梅原日本学」と呼ばれた。国際日本文化研究センターの設立にも尽力し多くの後進も世に送り出した。
 梅原さんは、哲学者の西田幾多郎にあこがれ京大の哲学科に入学。やがて哲学から、古代史、歴史、日本研究へと関心を広げていく。昭和44年、学園紛争を機に立命館大学を去ったのを機に、浪人生活を送った3年間に書き上げた論文が、梅原さんの名前を高めることになった。
 それは記紀論を執筆するうえで飛鳥・奈良時代の実力者、藤原不比等(ふひと)(659〜720年)を調査するうちに、芽生えた古代史への疑問だった。そこから、法隆寺建立の謎に迫る「隠された十字架」(昭和47年)、宮廷歌人柿本人麻呂の死の謎に迫る「水(みな)底(そこ)の歌」(48年)が生まれた。現在では、これらは「梅原古代学」「梅原怨霊史観」として高く評価されているが、当初は研究者から批判されるなど、反響を呼んだ。
 自らの研究にとどまらず、日本研究をもっと学際的に国際的にやりたいとの思いから、昭和53年には、「日本学の真のアカデミズム」をかかげ、日本文化研究所設立構想をまとめ上げ、仏文学者の桑原武夫さん、民族学者の梅棹忠夫さんとともに設立に向けて奔走。文部省(現文部科学省)に何度も掛け合うが進展しないため、当時の中曽根康弘首相に直談判、大きく動き出す。62年5月、国際日本文化研究センター京都市西京区)が設立され、初代所長に就任。3期8年務め、その間、河合隼雄さん、山折哲雄さん、芳賀徹さん、井上章一さんら日本の人文科学分野を牽引(けんいん)する人物が日文研に集まった。海外からの研究者にも積極的に門戸を開き、ドナルド・キーンさんら優秀な研究者が次々と集まった。
 平成2年には、政府の脳死臨調の委員に就任し、「法律が人間の死を決めるべきではない。『死とは何か』という議論が十分になされていない」と少数派として法案に反対し続けた。
 また、「仏教は無用の殺生は許していない」として長崎県諫早湾干拓や、三重県長良川河口堰建設問題では反対を唱えた。
 平成25年5月には、米寿を記念した講演で「人類哲学序説」を出版したことに触れ、「私の尊敬する白川静先生は96歳まで生きられた。私もまだまだ長生きして、『本論』を書きたい」と話していた。



文化勲章」に相応しい独特の異彩を放つ梅原学が形成された。

九条の会」の呼びかけ人となり、「井上ひさし」氏や
文化勲章の受賞(授賞)を断った、「大江健三郎」氏と席を同じゆうするところが

彼の嬉々としてはじける童子のような笑顔で悦ぶ懐の広さと深さを教えてくれた。


恥ずかしながら、各新聞社の引用掲載が多くなってしまった。

梅原猛氏が好きだった分、各記事を読んでいると、
それぞれ書き手の記者の思い入れなのだろうか、

朝日、読売、産経それぞれ微妙に焦点の立ち位置が関数的に動いている。

梅原哲学の複雑な絡み合いの味が実存の個性となり、主体となり、
わが身に迫ってきたので、敢えて差別化を受け止めて掲載させてもらった。


最後に、積ん読書が多く読書に励む「隙間時間」がないから購入はしないが、
チラッと覗き読みしたいと思う梅原書籍を二冊。


午前様になってしまった。

今夜は柿本人麿が持統天皇の愛人で、宮廷で怨みをかうことで刑死したかどうか?

ブログに対峙して潜在意識を払拭した事を「脳みそ」で反芻し、
楽しみ喜びながらベッドに潜り込んでゆく。

お寝みなさい💤

吹雪く風の音は聞こえず静かな夜、1時27分である。


翌日18日の追録)

一晩明けるとやはり吹雪いていたのだ。

午後3時過ぎ夕刊が配達された。

窓の吹雪跡は残ったままである。